みずのそこ
aquascape

いってき、いってき

ドキュメンタリーとアートを分けるものは何だろう、とずっと考えていた。(ヨコトリ2024、おもに横浜美術館展示を眺めながら)
世界にあるものをすくいあげて問題提起することは、どちらにもできる。ヨコトリはいつもそうだけれど、今、世界に存在する問題が会場にさまざまあふれている。
今回、そんな問題たちをそのまま写した動画作品が複数あり、作家の視点が「何を撮るか」にしか反映されていない作品は、ドキュメンタリーと何が違うのだろうか、と思ったのだった。
人の集団と人の集団の対立、衝突が映し出されたいくつもの映像のなかに、とある地域で過去に起こった衝突事件を、当時の当事者たちを集め当時とは逆の立場で演じてもらって再現する、というものがあった。これは疑問を抱くまでもなくドキュメンタリーではなくてアート作品なのだと感じた。つまり、「介入」なのかなあ…。作家の意思と覚悟による世界への介入、解釈。ドキュメンタリーに覚悟がないというわけではなく、性質として求められる「対象との距離」が違う? のかな? というような。
そのあたりでキャプション含めていちばん印象に残ったのは富山妙子作品たちだったように思う。表現をする自分と表現対象との関係への疑問、苦悶、格闘…。

館に入ってすぐのところに、電子書籍を写しだしたタブレットが並べてあったの、ちょっと象徴的だったのかも。それは提示だけれども展示とはちょっと違うんじゃないか。

その他の点では、全体的に「テーマの通底」というのがすごく薄くて、あまり感じられなかったような気がする。魯迅はちょいちょい出てきたな、くらい。大きめの会場内にさまざまなギャラリーが出店しているフェア系に近い感触だったな。
あと、音に敏感な方にはしんどいかもしれない。どこにいても聞こえる大きめの音がひとつ、断続的に鳴らされるけたたましい音がひとつ。(前者については、否応なしに耳に押し込められるということ含めてのものだったと思うので、是非を言いたいわけではないんだけど。これがしんどくて会場にいられない人はいる、と思ったので)

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