みずのそこ
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いってき、いってき

夜/読耳寄り。ポスターデザイン好きすぎる。20240817073531-yaburing.png
朗読+ピアノ伴奏。これはどういうことかというと、目を瞑ることができる公演ということです。
ライブ・コンサートによく行っていた時期があるのだが、わたしはわりと目を瞑る客だった。読書が視覚と脳内を直結させるように、聴覚と脳内を直結させて、頭の中をぐんぐん広げてゆくことができる。朗読+ピアノなら、それが可能じゃないですか! わたし向き!

薄明かりと街のざわめき音で開演したのだが、冒頭、3秒くらいかな、ホール内の灯りがほんとうにひとつ残らず落とされて、現代人類があまり体験することない真っ暗闇に充たされる。また、ざわめき音が途切れたとき、そうか、光も音も、「それが無い」ことを知らしめるために「有る」のかもしれないと思い、そのまま噛み締めながら、結構、目を瞑って聴いていた。

で、セトリ(セトリではない)
 江戸川乱歩『人間椅子』
 アンデルセン『マッチ売りの少女』
 梅津瑞樹『演劇の街』

いや『人間椅子』さあ、途中で目を開いたときに、見えたものがほんとうに気持ち悪くて。気持ち悪さを抱かせる話だから気持ち悪いと思わせるのは読む人がうまいからなんですけど。「朗読者が目の前にいる」「朗読者が俳優である」ことによって視覚でもあらわされる気持ち悪さ(作品として正しい気持ち悪さ)、目がそらせなくなってそこからは目を開いて聴かざるをえず。いや~、気持ち悪い話だよねえ!

舞台上に設えられたランプに灯を入れて、『マッチ売りの少女』。
先程の気持ち悪さを相殺させる選曲か?と思ったが、まあ後味は理不尽ですよね。此の世の理不尽。信仰で装飾されているところがまた、ことさらに。
3作の中でいちばん淡々とした味付けだったのがまた…読み手の視点が、少女カメラじゃなくて、大晦日の夜の街カメラだったような気がしてしまった。街の人ではなく、街。なんなら、少女がマッチを擦り付けていた壁とか、そういうもの。

『演劇の街』。始まってすぐ、あ、残機1に入ってたあの小説だ。というのはわかった。
こういう朗読系のもので、近代以前の古い作品が選ばれがちなのは、著作権とか利用料とかのからみなのはわかるんですよね。だから、自作という武器はけっこう強い。強いので、今回も1作は自作をお読みになるだろうなとは思っていたんですが。
そうか、「自作」の「既発表作」がある人になったんだ。それゆえ、この作品は既にこちらが読んでいるものだった、というのが、体験としてとても良かった。いや、これ聴けてよかったなあ。

最後のアレです。手を叩く音。
原作というか、書籍として印刷された「小説」は、語り手による発話+ラスト1行のみト書きという構成により、戯曲かな?と見える作品になっている。あの最終行は、スタンダードに小説らしく書くなら、例えば、「パァン、と。手を叩く音がした。」とかになるところ、あえて、ト書きっぽく書いてあるのだと思う。そのことで醸し出される言い様のない逃れられなさ、理不尽さみたいなものがある。
これが耳から聞く形式になると、本当にすっぱりと声を、朗読/会話という生き物の首を落とすように、コンマ以下秒の鋭い音が鳴り響く。
なんか、その、あまりにも見事で、拍手をしながら口元がゆるんでもうにやにやにやにやしてしまった。
余韻としての感情が入る隙がない。やられた!という感想しか浮かばなかった。

光も音も、「それが無い」ことを知らしめるために「有る」のかも、とさっき書いたけど、最後の最後に、「有る」音の強烈な「有る」を突き刺されてしまった……。

だから、「朗読だけでかっこよく終わりたかった」とおっしゃっていた、梅津氏の気持ちはめちゃくちゃわかるんですよ。終わっていただいて構わなかった。そういう終わり方だった。
でも、あれだけ拍手されて、影ナレが影ナレで終わらなくなって、袖の扉が微妙に開いたり閉まったりした挙げ句、ご挨拶に出ていらしてしまったの、それはそれでチャーミングでした。

恒例行事として定期的に開催されると良いのではないかな。
ライブツアーを繰り返して演じ手と客席に体験が積み重なっていくと、たまには、アンコールに無言で出てきてめちゃくちゃ長い暗い曲1曲だけ演って無言で去る、みたいなことも演出として成り立つようになると思います。(客側も、あ、これはもう聴いたら帰るやつだわ、と読み取って、恒例のダブルアンコ求めずにみんなそのまま帰ったもんな)(体験談)

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