みずのそこ
aquascape

いってき、いってき

この12月、さまざまな「作品」に接する機会があり、コンテンツのタイプと自分の向き不向きについていつも以上に思うことが多かった。
とはいえ、新しいことに気づいたというよりは、以前からぼんやりと考えていたことがよりはっきりした、という感じだった。つまり、具体的な表現というものは「他人事」 「自分から遠いこと」 「わかりにくいこと」として時には越えがたい壁を感じることもあり、抽象的な表現ほど、自分の感情との繋がりを部分的にでも見出しやすく、そこから自分の内側に広げて味わうことができる、という傾向があるなあ、と。
これは、子どもの頃にあほほど「お話」を読んだけれど、思春期に心を救われたのは「詩」だった、ということとも通じているかもしれない。
世の中の人はわたしが思うよりずっと怒っているし、わたしが思うよりずっと悲しんでいる、ということを常に意識して人と接している、ということとも通じているかもしれない。

何がきっかけだったかというと、とある演劇公演を最前どセンターで観る機会を得たのだけど、わたしは最前どセンターで演劇を見ることに向いていないなあと気づいたのだよね。ある程度の距離とか、俯瞰できる視界とかがあり、にんげんの表情をことこまかくはっきりと浴びない、ほうが、たぶん、良い。
もともと、生身の人間によるパフォーマンスを見ることへの適性がさほど高くないのだった…ということも久しぶりに思い出した。
舞台上にあるものが、食卓よりも宇宙のほうが心寄り添う。そして、食卓を観たい人なら最前という距離や視界に意味がありそうだけど、宇宙を観たいならそうではなくむしろ遠さに意味があるよなあとも思ったのだった。

1度は最前になってみないとはっきりわからないことだったと思うので、1度当ててくださって本当にありがとうございました。
あと、物語で泣くことはそんなにないが、音楽には無限に泣かされてしまうことも再確認…。音楽こわい。どこに直撃しているんだ…。

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